大納言横丁

俺のブログ

夕暮れと朝焼けの決定的な違い

たかだか一年や二年前の自分の発言や文章を読んで気恥ずかしくなるのを、昔は成長の証だと思っていたけれど、どうも違うのではないかと考えるようになった

好きだったものが好きじゃなくなって新しいものを好きになる、というのは自然なことだとは思うけれど、それによって昔の自分が良いと思っていたものをそう思えなくなっているのだとしたら、俺にとってはすごく悲しいことですね

基本的に自分のことも自分の生む発言も好きだからこそ、見返すのが辛いものはマジで全然良くなかったんだなともなるし、それを自分が成長したからだとはなかなか思えない 当時の自分は巨大な自己肯定感で誤魔化されてただけなんだな…としかならん

 

もちろん若さゆえの未熟な言動や思想が見られるものはシンプルにその幼稚さに赤面したりするけれど、今となってはそういった幼稚だった頃のある種の無鉄砲さ、自分を客観視することのない無敵だった自分のことは羨ましく思うし、カッコイイなとも思う

 

自分のことは確かに好きなんだけど、俺の好きな自分は他人に好かれることはないと思ってるところがあって、段々そこのズレに違和感を覚えるようになってきたかもしれない なってないかもしれない 別に俺のことは俺だけが好きでいいから…………

 

 

大納言です

 

こんばんは

 

 

 

神も信仰も人のためにあるというのはまあ普遍的な考え方だけど、映画見ててそれが急にストンと腑に落ちるところがあって、今からそれについて書こうとしたんですけどマジで長くなった上に特にまとまらなかったしメチャクチャ眠くなったのでやめました。チンポ・チンポ

 

 

作品に関する多種多様な感想や意見が目に入ってくるようになって、解釈バトルが連日開催される昨今のインターネットにいると、どうも前のめりな姿勢で鑑賞してしまうことが増えたかもな、とフョロワーのツイを見て思った

 

のめり込んでこれはこうかもしれないあれはああかもしれない、と考えを巡らせながら作品を楽しむのはすごく良い楽しみ方をしてると思うんだけど、そこの順序が逆になるというか、読んでて楽しいから深読みしていくのか深読みするために読んでるのかみたいなことになってきてる気がする

これって人の感想が目に入りやすくなって、自分の楽しみ方は"浅い"んじゃないかという恐怖ないし恥ずかしさにかられるからなんじゃないかな、と思う

 

もちろん自分では気づかなかったこと、知らなかったことを人の感想や解説で知るのは鑑賞体験として楽しみの一つなんだけど、だからと言って自分の最初のフラットな楽しみ方が劣るということは全くないんだよな

解釈に正解はないし感想に深浅もないんだから、見た!おもろかった!で終わっても299000000000文字の感想書いても本質的には何も変わらんとすら思ってる 情報としての濃度はともかくとして

 

だから、自分もやりがちなんだけど、感想を言うために見るような姿勢はしっかりコントロールするべきだなと思った 

 

ふと思ったけど、鑑賞した作品に対する出力の強度として、好き嫌いを言う→面白かった/そうじゃなかったところを言う→感想を文章として整える→二次創作したくなる という流れがあるんだな 少なくとも自分の中では

 

これは別に面白ければ面白いほど右になるわけじゃなくて、メチャクチャ面白かったけど一言で終わりたいやつ、結構好き程度だけどなんかめっちゃ語りたくなるやつとかも全然あるんだよな 

 

何が言いたかったんだっけ 忘れちった

 

 

お〜わろ はよ寝ろよ トイレの蓋もちゃんと閉めろよ 

 

ほな